ちょっとそこまで-斥候隊-

Spare me your lecture.

ある人は言った「全てを疑ってかかれ」って


 日本人とその他外国人の違いってなんなんでしょうね?前にも少し触れましたけど、僕は“国民性“は存在すると思っています。四季が無いのに、春の陽気を伝えるのは難しいし、秋のはかなさを分かれと言っても無理でしょう。満員電車に一時間も揺られて仕事に行くことを伝えても、頭で理解してもイマイチ想像できないでしょう。


 そういった文化レベルでの違いが常識を作り上げ、常識をベースとした“国民性“を成していくんだと個人的には思っているんですが、これが大きな大きな違い、はたまた壁と成りうるのかどうかといったらまた別な話なのかなーと思うんです。


 「全てを疑ってかかれ」というのは誰かが僕が出ていく時に、忠告してくれた言葉ですが、中々含蓄があって時々頭の中でリフレインしては消えていきます。


 外人が他国で何かを始めようとなるとこれはとてもハードです。だって外人ですから。現地人>外人という構図は当たり前でございます。トラブルもあれば危険もあります。


 でも、仕事をする以上“関わり“は必須であります。信頼や信用を作ると言い換えたら少し格好良いかもしれませんが、必要なものです。


 それで思うのが、コイツは大丈夫かな?コイツは悪い奴かな?イイヤツかな?とか思って、結局、信用や信頼ってなんなのよ?って話になるんですけど、未だに答えが出ておりませんで中々難しいお話です。


 でも、人間というのは根本的には変わらないとコチラで感じております。文化、常識レベルでの違いは認めつつも、人と人との関わり合いは万国共通だと思うわけでございます。


 口論になり、聞く耳を持たない奴はどこにでもいますし、悪いと思っても知らん顔な奴もいます。金に色気を出す者も当然いますし、嘘をつく奴もいます。一方で、そうでもない人も当然いるわけでございまして、人間関係というのはつくづく面白いなと思っております。


 重要な事は「知る」と言う事に尽きるのかなと思います。信用や信頼というのは二次的なもので、相手がこう考えてる。あーだと思う“だろう“という仮説と検証を積み重ねていき、さらに結果を検証していくしかないのかなと思うわけです。



 だからその曖昧さの狭間の中で、自分を知ってもらう必要があるし、相手を知る必要があると。仮説と検証のためにお互い積み重ねをして、なんとかその曖昧さを潰していく作業が必要とそう個人的には思います。信頼してるから信用してるからというのは曖昧な事ですから、人間関係というのは難しさも面白さもあるのかなと思います。


 だから、建前ばかりの人間関係は意味のない行為であり、ミスリードを引き起こす悪でしかないと個人的には思うのです。自分はこういう考えだ!と発信している方が賢い選択だと思います。“空気を読む“というのは集団で機能するのかも知れない。特に日本ではチカラのある行為であります。しかし、一対一の現場ではこれ程愚かな行為は無いと思います。思い出してみれば簡単です。会議では発言せずとも、会議後の仲間内では「あれはこうだよね。」「あいつ何馬鹿な事言ってんの?」と自分の考えを同僚なり仲間なりに伝えているハズです。


 伝える。言い換えれば思考の仕方を知ってもらうという行為は、関係を築く上で非常に大事なことだと思います。それは、言語だとか国だとか肌の色だとか歳だとか関係無く必要な事だとなんとなく思います。


 「疑ってかかる」前に、知ってもらうあるいは知る事がどうやら大切なんだろうと。そして、それは万国共通の方法であり、家族友人ありとあらゆる人間関係において有効な手段だろうと思います。







 そういった意味でブログも悪くないのかなと思ったり。


納まりが悪くいなーと思いつつも、書き直すのも確認するのもめんどうなので、このまま瞬間的なメモとして置いておきます。





 チャオ