ちょっとそこまで-斥候隊-

Spare me your lecture.

Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.をションベンに行く前に考える。


 昨日のエントリーが少し気持ち悪いなと思いましたのでブログを書く前からアルコール摂取をしないよう心掛けようと反省しております。


 さて、人類の美しさのひとつである悩みについてでありますが、昨日のエントリーでは悩みを打ち明けることをマスターベーションと表現しました。でもそれは否定的な意味と嘲笑を込めたものではなく、悩みとは他人からしたら取るに足りない事であり、そんな深刻になるなよと。最終的な判断は自分が下す他ないんだよと。という意味をもってそうしました。


 当然僕自身も色々と頭を抱えたり、投げ出したくなる時もありますし、心境を吐露する場合もあります。悪いことではなく、むしろ僕にとっては腹を決めた事の再確認作業として役立っております。話す事は当然良い効果を持っております。それはマスターベーションと変わりありません。


 兎に角、早い話が悩み事に対して過剰な気を使うなと警鐘を鳴らしたいとの思いを込めています。後ほど少し説明致しますが、簡単に言えばクヨクヨ悩むなよとの趣旨でございます。




閑話休題



 話は少し変わり、昔話になり個人的な話になって恐縮ですが、私のものすごく仲の良かった友人が自殺で亡くなっております。


 当時の我々は、誰一人として彼の心中を見抜けた者はおらず、鬱であった事を知っていたものは彼の家族くらいなものでした。


 今でも時々思い出してみては深く後悔をし、当時の自分の無力さを痛感したりします。“もし“があるならなんて馬鹿な事も考えます。


 でも“もし“があっても最悪な事態を免れられたかどうかは正直に申しまして疑問符です。我々が思うより遥かに複雑に絡み合った固有の悩みだったんだろうと思うからです。


 先ほどにも言いましたが、我々友人は誰一人として彼の異常を察知できなかったですし、未だに我々には疑問符がついて回っています。


 彼は心境を吐露できない程の状態であったのか。我々(友人達)を利用する術を知らなかったのか。我々をそもそもなんとも思っていなかったのか。いずれにしても私にとっては、考えたくない事で当時を思い出したくない事です。


 そして、私には正直言いまして心の病がなんなのか?どんな作用をもたらすのか?どうなってしまうのか?どう解決するのか?が解りません。

それは身を持って体験しました。大きな代償と引き換えに。


 心の病を持つ人の気持ちなんて到底解らない。解りっこない。テレパスでも無理でしょう。でもその諦めがあるからこそ、私は心の病にならないようなメンタリティと環境が何より必要だと今思っています。


 それは、悩みを解決するプロセスに関する考え方だけではなく、そもそもの悩み自体が本当に“悩み“であるのかどうかの判断に至るまで、個々人が突き詰めて行かないといけないと思っています。


 悩みの種なんてものは、待たずともアチラ側からいくらでも降ってきます。人を問わずに。
その時、種に対し適切な処理または無視ができるかどうかが問題であるとともに、降り掛かってくる種を喰らえるかどうかのメンタリティが大切だと思います。


 日本の常識は世界からみたら非常識なほうが圧倒的多いです。だからこそ今の日本が成り立っている側面は大いにありますが、一方で凝り固まった思考は人を盲目にさせる面も持ち合わせていると思います。逃げ道すら考えられないような異常な状態は洗脳に近いと言う他ありません。


 仕事が嫌なら辞めればいい。いじめが嫌なら学校なんか行かなくていい。部活がツライなら辞めれば良いそれだけの話です。


 ところが、様々な常識や世間体がそうやすやすと許すわけないのが問題ですが、初めにその根本を疑ったほうがいいと私は思います。聖書と同じで誰かが便宜上作ったものでしかない。常識として扱った方が都合が良い享受者(経営者、教育委員会、親etc)が必ずいます。


 日本という国も疑ってもいいかもしれません。歴史的にみても、日本はまわれ右をしないひとりだけ左を向くような人を腫れ物を触るような扱いをします。それが日本という国にはあります。


 良いか悪いかはこの際問題にはしませんが、我々は常識とはなんなのか。日本とはどういう国なのか。悩みとはなんなのか。を個々人で考えないといけないと思います。





 私自身は友人の心の病がでる前に何かできなかったのかなんて考えたりして、時々流れてくる自殺のニュースを眺めております。