ちょっとそこまで-斥候隊-

Spare me your lecture.

誰も否定する権利は持ち合わせていないんだろう。あの時僕は若かった。

 なんとなく目についた記事を辿っていくと、日本の自殺に関するドキュメンタリーに行き着いた。
Saving 10,000 | Winning a War on Suicide in Japan

自殺との戦いにおいて、「敵」はいったい誰なのか。映画『Saving 10,000 – 自殺者1万人を救う戦い』は、日本の高い自殺率の真の原因究明に挑む一人のアイルラン­ド人の物語である。作品を通じて、日本のマスコミによる自殺報道のあり方、経済的圧力­、うまく機能していない精神医療制度などの重要な問題が浮かび上がってくる。第一線で­活躍する専門家から一般人まで、約100人へ取材し、日本がどうすれば自殺との戦いに­勝利できるのか、具体的な方策を提示している。しかし、自殺の話題がタブー視されてい­る日本で、一体どのくらいの人が耳を傾けてくれるのだろうか。

だそう。見てみたけれど、特に感想は無い。しいて言うならばそんなものだろうという程度だった。




 僕の友人が自殺で亡くなっている。今でも不思議なことにあの日一日を思い出せる。それもかなりの細部まで。あの時程の趣味の悪いジョークは未だに聞いたことが無い。全てが急だったし謎だった。どれをとっても納得のいくものではないし、未だに僕は理解はしていない。


 鬱だったという事実だけが、とりあえず納得のいく落としどころとして中に浮いている。それでも、実態の無い霧がもやもやしていることに変わりは無い。何がそうさせたのだろう。どんな気持ちで最後を迎えたのか。何かできることはあったのだろうか。考えはめぐるが一向に解はでてこない。


おそらくこれからも出ないだろうと思いながら時々自殺について考える。


 僕は死にたいと思ったことは一度も無い。同時に生きている意味についても考えたことが無い。だから、おそらくそういう類の悩みを抱えている人の役には立てないと思ってる。そして、鬱の怖さを身をもって体験した。彼が最悪の結末を迎えるまで過ごした日々を僕は時々反芻して、自分の発言について思い出しては後悔をしてる。


 何気ない一言が積み重なってないだろうかと心配しては、鬱とはなんだろうと思う。でも何も解らない。謎だ。


 こうも自殺者が多い理由はなんなんだろうとも思う。夢や希望が無いから死ぬというのも理解できない。誰もそんな確固たる意思をもって生きてねーよと突っ込んでは、大学生の自殺を見て思う。


 仕事が辛い責任が重い。というサラリーマンの自殺を見ては、仕事を辞めればいいのにと思う。「いやお前は分かっていない。どうやって生活するんだ」と言われても「仕事を辞めても死にはしないだろう」と僕は思う。


 いじめを苦で死ぬ若き命のニュースを見ては、もったいないと本当に思う。希望を抱かせられない社会にした責任の一旦を感じる。でも死ぬことはないだろうと。復讐は生きてしろよと。



 僕は、日本の自殺の根源は”常識”にあると勝手に思っている。常識と非常識がハッキリと別れ、その一線を越えたら爪弾き。人格まで否定される。常識は時に個人の能力を均一化し”普通”という鋭い槍をブン投げる。誰でもそれができるという'前提'を持って。


 人と違うことがこれほどまでに社会で生きていくに障害になる例は珍しい。それは"個性"ではなくて"異端"なんだろうと思う。皆に普通を求め、最高を要求する。おそらく普通でいることが耐えられなくなった時、チラチラと自殺が浮かぶのかなと思う。


 日本で育ち、日本のシステムに生きた僕にもその"常識"は埋め込まれている。当然"そう"あるべきだ。と先んじて考えることは良くある事。そして、その"そうあるべき"で無かった場合、腹が立つ事も事実ある。


 でも、海外へ出てその根幹である'常識'が崩れた今、僕は非常識について否定はしない。それは、僕が非常識である可能性を否定できないからだ。信じて疑わなかった常識そのものが、間違っている可能性を疑うべきで、誰もそれを糾弾できる立場には無いと思う。


 右向け右はもう限界なんだよ。いろいろな人がいるということを個人レベルで理解しない限り常識の暴力は続く。何がブラック企業対策だよと。何が電車の安全の柵だよと。何がお悩みホットラインだよと。そんなもんじゃヘラネーよと。


おとといきやがれと



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